江戸の人口と識字率

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。

成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いている。

ただし、識字率100%の武家が人口のかなりの割合を占めているための上げ底という見方もあり、地方では20%程度だったと言われている。ただそれでも世界的に見て高い。


ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。

武士の人口の推定は20万人程度から100万人程度まで幅があり、68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。


町奉行支配下の町人人口
江戸の人口の最古の記録は、『正事集』の註釈として記された元禄六年(1693年)の35万3588人であるが、実際に人口調査の体裁が整えられてたのは、徳川吉宗によって子午改(6年毎)の全国人口調査が開始された享保六年(1721年)以降であり、報告書を作成した大岡越前守の署名と共に伝えられている。

以下公文書の他、複数の史料に記録として残っている江戸の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。
江戸の範囲は随時変わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは1745年以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは1818年以降である。また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。公文書の形式で残っているもの(重宝録, 享保撰要類集, 町奉行支配惣町人人数高之改, 天保撰要類集, 市中取締類集)以外は信頼度が低い。出典のうち『江戸会雑誌』や勝海舟の『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる江戸時代の史料が現在では不明となっている。斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑われるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであり、信頼性が低い。