江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にある城。千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。中心(本丸・二の丸・三の丸)部は、皇居東御苑として開放されている。

徳川15代の征夷大将軍の居城であり、江戸幕府の最高政庁であった。明治維新期、皇室が京都御所から江戸城に転居し、それ以降宮城・皇居となった。
以後は吹上庭園が御所、江戸城西の丸が宮殿の敷地となっている。

通常、皇居部分(西の丸と吹上庭園)に立ち入ることは出来ないが、その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二の丸と三の丸は皇居東御苑として開放されている。
南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。総構え全体の面積は世界最大の城郭である。


天正・慶長まで
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、後の江戸本丸・二の丸辺りの台地上に居館を置いていた。
江戸氏が15世紀の関東の騒乱で没落すると、康正3年(1457年)に扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が江戸氏の居館跡に江戸城を築城した。
道灌の江戸城はやがて後北条氏支配下に入る。
江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川・荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。秀吉に後北条氏旧領の関東六州(武蔵・相模・伊豆・上野・下総・上総)を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。


江戸時代
徳川氏が入城した当初は、質素な城であり、太田道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模な城であった。徳川家は開幕までにそれまでの本丸(元は二つの郭であったが入城後、間の堀を埋めて一つの郭にする)・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸を増築。また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。

また、慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。
本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。工事には日本全国の大名が動員された。

完成を見た時期は、家康の孫・徳川家光の代の寛永13年(1636年)である。以後、200年以上に渡り江戸幕府の中枢として機能し、様々な政治的事件の舞台となった。

明暦3年(1657年)、明暦の大火により天守閣を含めた城構の多くを焼失した。おもに経済的な理由により、その後天守閣は二度と再建されることはなかった。